マゼランクロスはセブ島の観光名所!フィリピンでキリスト教がはじまった歴史的な場所に行こう!

セブの観光名所といえば、マゼランクロスが有名です。その名の通り、マゼランが持ってきた十字架です。マゼランクロスの歴史はセブの歴史でもあります。面白いので詳しく解説します。

セブの観光名所マゼランクロス

2023年3月にまた行ってきたのでちょっと更新しました。

セブ島の観光名所のマゼランクロス

フィリピンにキリスト教を普及させたマゼラン。マゼランが持ち込んだ十字架がマゼランクロスです。その十字架が、小さな八角形の建物の中心に飾られています。それだけの場所だけど、フィリピンにとって大きな意味がある歴史的場所です。

マゼランの十字架 (Magellan’s Cross) とはポルトガル・スペインの探検家であるマゼランが1521年3月15日にフィリピンのセブ島に到着した時に打ち込んだ十字架である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/マゼランクロス
1834年に建てられたマゼランクロス

サントニーニョ教会側の入口の上には1834年と書かれています。八角堂の反対の入口の上には文字が書かれていて、マゼラン十字架の説明があります。この文字は1941年に追加されたようです。

マゼランクロスの八角堂の入口の文字

THE CROSS OF MAGELLAN. FROM TIME IMMEMORIAL THIS SPOT HAS BEEN SET ASIDE TO COMMEMORATE THE ERECTION OF A CROSS IN CEBU BY THE EXPEDITION OF MAGELLAN. WHEN KING HUMABON OF CEBU AND HIS QUEEN, SON AND DAUGHTERS, TOGETHER WITH SOME 800 OF THEIR SUBJECTS WERE BAPTIZED BY FATHER PEDRO VALDERRAMA. THIS HALLOWED SITE WAS IMPROVED IN 1735 BY REV JUAN ALBARRAN, PRIOR OF SAN AGUSTIN AND IN 1834 BY RT. REV. SANTOS GOMEZ MARANON, BISHOP OF CEBU. THE IMAGE OF THE SANTO NINO FOUND BY THE EXPEDITION OF LEGASPI IN A HOUSE NEAR THE PRESENT SITE OF THE CATHEDRAL OF CEBU IS VENERATED BY THE FAITHFUL IN THE NEARBY CHURCH OF SAN AGUSTIN. 1941

マゼランの十字架。太古の昔から、このスポットは、マゼランの探検隊によるセブ島での十字架の建設を記念するために残されています。セブのフマボン国王とその王妃、息子、娘たちが約800人の臣民とともにペドロ バルデラマ神父から洗礼を受けた時です。この神聖な場所は、1735年にサン アグスティンの前の REV JUAN ALBARRAN によって修繕されました。1834年には、セブのキリスト教の聖職者サントス・ゴメス・マラノンによって修繕されました。セブ大聖堂の現在の場所に近い家でレガスピの遠征によって発見されたサント・ニーニョのイメージは、近くのサン・アグスティン教会の信者によって崇拝されています。 1941年

マゼランクロスの入口の上に描かれた文字

洗礼を受けた人数は800人(SOME 800)と書かれています。でも、フィリピン政府観光省のウェブサイトには、400人と書かれています。

1521年、フィリピン最初のキリスト教徒となったフマボン王とファナ女王、臣下400人が洗礼を受けた場所にマゼランが建てた木製の十字架

フィリピン政府観光省

時を経て、数字が増えていってるのかもしれない(笑)。

中に入るとマゼランクロスがあります。

セブ島の観光スポットのマゼランクロス

1521年、セブ島に到着したマゼランはキリスト教の普及を進めます。セブ島の首長フマボン王はそれを受け入れます。勝ち目がないと思ったのか、寛大な性格だったのか、利用してやろうと思ったのかはわかりません。

フマボン王がカトリックを受け入れて、フィリピンで最初のキリスト教徒が生まれます。首長フマボン王とファナ女王、臣下800人が洗礼を受けました。そこにマゼランが建てた木製の十字架、それがマゼランクロスです。フィリピンにおけるキリスト教のはじまりです。超重要な場所ですね。

マゼランが来た300年後。人々が十字架を削りとるので、十字架はレプリカにしました。それが現在の八角堂。1834年です。

セブ島のマゼランクロス

八角堂の天井には、当時の洗礼儀式の様子が描かれています。 

マゼランクロスの絵

マゼランクロスを建てている様子もありますね。

マゼランクロスの足元の文字

Magellan’s Cross This Cross of Tindalo Wood Encases the Original Cross Planted By Ferdinand Magellan On This Very Site April 21, 1521

マゼランクロスの足元の文字

マゼランの死後、本物の十字架は破壊されたか紛失したため、この十字架はフィリピンでのキリスト教の布教に成功した後、スペイン人によって打ち込まれたレプリカである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/マゼランクロス

マゼランクロスの下に書かれている文字を見ると、この黒い十字架の中に本物があるようですが、Wikipediaにはレプリカって書いてるんですよね。

マゼランクロスで記念撮影

ちなみに、下からカメラを構えて、マゼランクロスと天井の絵と一緒に写真を撮るのがポイントのようです。

マゼランクロスの場所は治安が悪い?

マゼランクロスの近くには、観光スポットとして有名なサントニーニョ教会の横にあります。反対側にはセブ市役所があります。広場があるので、昼間はフィリピン人がたくさんいます。

マゼランクロス付近の治安

少し歩くと、カルボンマーケット、コロンマーケットもあって活気があります。観光エリアです。ただ、途上国では、海の近くは治安が悪いことが多く、セブも同じです。

僕は危険な目にあったことはないです。船もたまに利用します。夜の船でドゥマゲテやイロイロにも行きました。でも、このエリアを危ないと感じたことはないです。でも、たまに留学生のトラブルを聞くので、夜に行くときは注意してください。

セブシティからだとタクシーかジプニーで行けます。

セブシティのマゼランクロス付近の地図

名称 マゼランクロス
英表記 Magellan’s Cross
営業時間 8:00〜18:00
住所 P. Burgos St, Cebu City, Cebu

マゼランとフマボンとラプラプの関係を紐解く

マゼランとフマボンとラプラプの関係が面白い。簡単に説明すると、マゼランがセブにやってきてキリスト教を普及させて植民地にしようとした。セブ島の首長フマボンとマクタン島の首長ラプラプは仲が悪かった。フマボンはキリスト教の洗礼を受けた。そして、マゼランにラプラプを攻撃するようにお願いした。マゼランはマクタン島を攻めたが、ラプラプに殺される。逃げ帰ったマゼラン一行は宴会の場でフマボンに毒殺され、その生き残りはセブ島から脱出した。しかし、44年後にスペイン軍が帰ってきてセブは制圧されてスペインの植民地になったのです。

歴史的な出来事の日付を見ると興味深いです。見る文献によって微妙に日付が違うけど、Wikipediaをベースに考えると以下のような感じです。

  • 1521年3月15日、マゼランがセブに十字架を持ち込む。
  • 1521年4月21日、セブ島の首長フマボンがキリスト教の洗礼を受ける
  • 1521年4月27日、マクタン島の首長ラプラプがマゼランを殺す。「マクタン島の戦い」
  • 1521年5月1日、フアン・セバスティアン・エルカーノの指揮の下、マゼラン一行はセブ島から脱出

怒涛の1ヶ月半。密度が濃かったでしょうね。マゼランは殺されるわけです…。

マゼランクロスの歴史

  • 1521年3月15日、マゼランが十字架を持ち込む。
  • 1735年、修繕
  • 1834年、修繕、現在の八角堂が建てられた。
  • 1941年、入口の説明文が追加される。

ずっと違和感がありました。だって、マゼランがセブに来たときって、日本に黒船が来たようなものでしょ。いきなりデカイ船がやってきて、「キリスト教になれ!」って言われても、ならないでしょ。

フマボン王がマゼランにラプラプを攻撃させた?

でも、フマボンがマゼランをけしかけてラプラプと戦わせたという説を知って納得しました。マニラ新聞の記事が面白かったので紹介します。さすがマニラ新聞!

マゼランの信頼を得たフマボンは、マゼランに取引を持ちかけます。実は隣のマクタン島にラプラプという敵がいるので攻撃してくれないか、というのです。フマボンはラプラプの姪と結婚しており、ラプラプとは同盟関係にありましたが、ラプラプはマクタン島という地形を利用し、セブに入ってくる船を止めることがあったため、よく揉めていたというのです。

【フィリピノ・ワールド】フマボンとラプラプ

フマボンはラプラプの姪と結婚してたの?贈与結婚?

セブシティのMuseo Sugboに行くと、「フマボン王はマゼランの協力を得て、ラプラプ王を倒した」とはっきり書いてました。ライバルだったのです。

Museo Sugboのフマボン王
Museo Sugbo

Humabon was the chieftain of the flourishing port village of Cebu, when Ferdinand Magellan and his fleet reached the island on 7 April 1521. Humabon disregarded the arrogant attempt of intimidation by the newcomer. He welcomed the Europeans, accepted their offer of friendship, and even waived the required tribute. Consequently, Humabon sought the help of Magellan in defeating his rival Lapulapu, the datu of nearby Mactan. Humabon, his wives, and his subjects, were the first natives to accept Christianity when they were baptized on 14 April 1521. Humabon received Carlos as his Christian name, in honor of the Spanish King.

Museo Sugbo

フマボンは嫁と一緒にカトリックになったんですね。マゼランが来る前にも、ラプラプとフマボン王は戦っていて、フマボン王は負けています。だから、フマボン王がマゼランを利用してラプラプと戦わせたという解釈は納得できる。

マゼランが少人数でマクタンに行ったのが不自然

マゼランが少ない人数でマクタンに行ったのが不自然なのです。マゼランは50人から100人、ラプラプ王は1500人です。攻め込むには違和感がある戦闘力の差です。

マクタン島の戦い Museo Sugbo
Museo Sugbo

At around 3:00 o’clock in the morning of April 27, 1521, a Spanish force of 50 soldiers and an equal number of Cebuanos reached Mactan. Faced by a force of some 1,500 Mactan warriors led by the chieftain Lapu-lapu, the Spaniards lost and their leader, Ferdinand Magellan, was killed. Thus ended the first attempt by foreign invaders to conquer the Cebuano.

1521年4月27日の午前3時頃、50人の兵士と同数のセブアノ人からなるスペイン軍がマクタンに到着しました。酋長ラプラプが率いる約1,500 人のマクタン戦士の軍隊に直面して、スペイン人は敗北し、彼らの指導者であるフェルディナンド・マゼランは殺害されました。このようにして、セブアノを征服しようとする外国の侵略者による最初の試みは終わりました。

Museo Sugbo

マゼランの遺体が特定されたのち、フマボンはラプ=ラプに対し、彼が望む物を贈るのと引き換えにマゼランらの遺体を引き渡すよう命じたが、ラプ=ラプはこれも拒否した。生き残ったスペイン人たちはセブ島へ逃げ帰ったが、その中心人物の多くはフマボンに宴席に招かれて毒殺された。フマボンの裏切りを受けて、マゼランの跡を継いだフアン・セバスティアン・エルカーノは急いでフィリピン諸島を脱出した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/マクタン島の戦い

毒殺って…。やっぱりフマボン王がマゼランを利用したようです。だけど、戦勝者は自分に都合のよいように歴史を作るので、マゼランが両者の悪い関係を利用しようとした可能性もゼロではないですねえ。

フィリピンがスペインの植民地になった歴史

  • 1521年、マゼランが来る
  • 1521年、ラプラプがマゼランを殺す
  • 1565年、スペイン軍が来て、フィリピンは植民地になる。

マゼランのセブ島到着から44年後の1565年、征服者(コンキスタドール)ミゲル・ロペス・デ・レガスピは、500人の武装した兵士と聖アウグスチノ修道会およびフランシスコ会からの修道士を連れてマリアナ諸島およびビサヤ諸島の各島を経てセブ島に到着、スペイン王の王冠のもと島の支配を進めると宣言した。レガスピたちはラジャ・フマボン王の息子、ラジャ・トゥパス王の砦を砲撃しスグボの町を破壊した。彼らは後に町を再建し、名を改めヴィラ・デル・サンティシモ・ノンブレ・デ・ヘスス(Villa del Santisimo Nombre de Jesús、イエスの最も聖なる御名の村)とし、教会や大学を建設した。1569年、この町はスペイン議会 (Spanish Cortés) によりフィリピンに成立した最初の入植地となった。レガスピの部下たちは更に兵士を率い、マニラを襲ってこれを征服した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/セブ島

ラプラプ王はマゼランを倒した。だけど、その44年後に、スペイン軍は再びセブにやってきます。フマボン王の息子もやられて、フィリピンは植民地になります。

すっかりカトリックが浸透したフィリピン。スペインが作ったカトリック教会にフィリピン人は毎週末訪れる。そして、観光客は、「ああー、キレイー。」と言って観光しています。

マゼランからキリスト教の洗礼を受けた場所(マゼランクロス)はセブシティの観光地。そして、マゼランを殺したラプラプ王の銅像はマクタンの観光地です。

マゼラン、フマボン、ラプラプ、この3人のストーリーは面白い。セブ旅行の際は、マゼランクロスとラプラプ王の銅像を見に行ってください。

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トラブル体験談

中谷 よしふみ

エンジニアベースの元コンサルタント。2012年にフィリピン留学を体験。自身の体験をシェアするため、このサイトを作ると、サイトが有名になり、学校に呼ばれるようになる。体験した学校は100校以上。いろんな学校を体験すると、ほとんど同じだけど、一部の学校は全然違うことを知る。業界で一番詳しい自信を持った、2016年に「英語はフィリピンで学べ」という書籍を出す。TOEIC845(リスニング450、リーディング395)。年間半分以上は海外で生活しているノマドクリエイター。英語を身につけて日本から出て視野を広げてほしい。そんな思いでエージェントをやっています。

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